04年12月13日(月) ブリコ通信
■ [ブリコ通信]■ブリコのブログ
ブリコというのは、ブリコラージュの略で、参加する展覧会のキーワードです。
ブリコラージュというのは、えー、説明がしんどいの省略します。
会場か図録でお読みください...。というわけで、展覧会開催まで、
何かあれば、そういうブログを書きます。多分。
■ 撮影隊が来る。
今度の展覧会に参加する人の様子を撮るということで、撮影隊のみなさんが来る。
何か製作風景をハイビジョン!で撮るということだったのだけれど、
なにも準備が結局できていなかったので、とりあえずながれで撮影しはじめました。
なすがままに下駄をあずけよう!...と思っていたのですが、
どうも、普段とちがう様子(多分学生の時以来、友人もよんだことがない)に、
小学校の先生が家庭訪問にきたようなテンションで、結局しゃべってしまった。
いっつも、こういうとき、ぽつんとひとりになった時に、ようやく反省する。
自己愛が強く、俺をわかれビームをだして、
はなすわりには要点をえないことばかりをしゃべっていたようで、
ものすごく恥ずかしくなる。それに共感されなかったり、
すべっているんだろうなあと考えることになれてしまい、
説明は無駄な行為だと押さえ込んでいたつもりだった。が、結局話してしまい、
そのコントロールのできなさ加減にへこむ。いったいなにをしゃべっていたのか....。
作品もさることながら、対話や、ものごとが内内に向かわないよう努力しつつも、
その内内に向かう自己との対話や鍛えようのないナイーブさやネガティヴな思考感情と
うまく付き合う方法は、おっさんになってきて、わかってきたつもりだったが、
どうもこういうハイロウのヘルタースケルター感覚に陥るのは性格なのだなと再確認。
ただ、内内に向かう力はつらぬくと、通底しているので、
内向というのを間違っているとか、ネガティヴにとらえているわけではありませんので。
(このへんを書き出すとながくなるので、その、そんなかんじで、
文体からこいつ極度にへこんどんなーとか思われたらこまるので、そのまあ、いいか、
とりあえず。)
ともかく、常に新しい場所、価値、関係、等々との接触は恐怖であり発見でもあります。
ので、今回の展覧会で、もしかしたらすべってしまうかもしれない、
とも考えてしまいます。けれど、やってみないとわからないことをやらないと
面白くないし、言語化できていないことも経験から開かれていくことも
大いにありますので、ま、その面白いことをしたいと今から「わくわく」しています。
撮影終了後、みなさんと食事にいった先のレストランには、なんで?っていう写真
(賞状の額に赤いポストが写った写真や、夜の東京タワー等々)が、
たくさんヘンな飾り方で、おかれていた。高級感をだしたいのか、
なんなのかわからない、まるで自作の続きのような、とても面白いズレ方をしていました。
もしかすると、地元なのでわざわざ行かない場所、且、はじめてはいった店では
あったのですが、こういう土着的?地元のセンスが記憶として沈殿して、
創作できているのかもしれないのかなとも思いました。
今日の写真を添付してもらいました。
↑製作風景を撮影するということで、出したはいいけれど、
不自然な空気に何も作れず...。
↑展覧会実行委員長の先生と実行委員女史、そして撮影隊のみなさん。
先生のカメラをお借りして撮影。広角が面白い。
(広角レンズ覗いたのひょっとしたら10年ぶりくらいなのかも)
↑前に製作したビデオを見るの図。先生の切り口をたのしみにしつつも、
恥ずかしい私生活が観察されてしまうようなという..、
そのなんとも、どう考えていいのか(笑)
展覧会、前途色々あるけれど、もりあがるといいなあ....!
その後、監督から電話があり、デザイン一号目は没になり、ただいま二号目製作中。
■ [ブログ]何度も書くけれど...
ここは一応、半匿名性でリンクしあう、一個人的ブログが基本なので、
いずれHPからのリンクは消去して、その部分だけ移植するか、
プライベートモードにして、情報整理すると思います。ですので、
もしもキャッシュでここにたどり着いたりした方は、そういうことでよろしくどうぞ。
すいません。念のため。...偶然みる未来の人のために書いてみました。
04年12月14日(火) ブリコ通信
■ [ブリコ通信]ブリコ通信02
今日、さっそく、昨日、そうかまだ昨日だったんだ、昨日の会話のテープおこしを
添付していただきました。いやはや、すいません、ご苦労様です。
話した内容が思い出せず、テンションの記憶だけがのこっていたので、
もやもやな興奮のあまり、昨日はついぞヘンなブログを書いてしまい、
なんとも酒に酔って失敗した自己嫌悪感があったのですが(笑)
....うまいこと書かんとと思いつつも、
その日のうちにつけないと気持ち悪くなってしまうので、かいてしまったのです。
で、そうか、おこしたものを読んでみると、けっこう、なんでしょう、
伝達力のなさ、言葉をたらずはさしひいてもらって、まあ、
ふだん考えているようなことが話せていたのかもしれません。
普段見れない自分の背中をみるかんじです。はじめての経験ではないものの、
この言葉、会話による他者との関係と、このように書いている文字による内的関係の
面白さを思い出してきました。(そもそもブログを書くことで、
言葉からはなれないようにという目的があったのですが、
ついしんどくて簡単な言葉の羅列になってしまい、全然鍛えられていないことを反省)
速攻原稿を添付していただきありがとうございました。
04年12月17日(金) ブリコ通信
■ [ブリコ通信]■ブリコ通信003(創作ノート偏)
朝に先生の方から面白い研究のサイトがある旨のメールをいただいていたのでチェック。
読了。面白かった!アートをやっていて個人的にだどりついた常々考えている関心事が、
先端学問の方からも関心ごとになっていたみたいで、面白い。
難しいことはわかんないけれど、断片的に勘違い雑記(メモ)します。
■ ファイリング
美崎薫さんではないけれど、ボクはずっとファイリングしている。
いただいた手紙はもちろん、何がしかの記憶にかかわるものをセレクトして
ファイリングしている。毎年、だいたい120ページのA4ファイル一冊ないし二冊分になる。
ただ、これは今のところであって、去年など、ほとほとあらゆることに失敗したと判断する
ダウナーな状況の時は、薄く、今年もまた、関心がそれているというか、
そういう行為を意図的に強制的にセーブしたせいか内容が薄い。
ただ、創作物に関するメモ等はいっさい捨てておらず、袋にたまっている。
■ スキャン
98年、パソコンが手に入った時まっさきに考えたのが、このデジタル化だった。
場所をとらないし、ためこまなくてもいい、これはすごいことだった。
すべてスキャンし、且つ、そこからセレクト上こぼれ落ちたものもスキャンした。
(たとえば、図書館で借りたものなどは返却しないといけないが、スキャンすれば、
何を読んだのか記録できた)このことで、
当時の連想をたちきることなく記録することができた。
が、メディアがかわったり、容量の問題が出たり、
そもそものPCの不勉強等々の理由で、結局ここ二、三年していない。
そもそも、まだまだスキャンに時間がかかり、
薄いものはデジカメではうっとうしいし、等々の理由でデジタル化が頓挫している。
■ 「現役の記憶」としての過去
結果としてスキャンすると気が済んで見返すことはない。また、それらを見返しても、
それ自体を「現役の記憶」として感知し、
そのためこんだ動機である「何か」をまったく記憶として再生しない。
美崎さんの「ずっと今みたいだ」という言葉はとても合点がいく。
かつて、子供のころの八ミリを高校生くらいになって映画に興味をもちはじめたころ、
そんなのがあったことを思い出し、十数年ぶりに再生してみたとき、
そこに映る自分が動いているという驚きもあったが、そこに映る岩の冷たさや感触、
光、寂しさ、不安、時間の感じ方、等々がまざまざと思い出されて狼狽した記憶がある。
これも今見れば、そこまで深く、自分の中におりれない。
やはりそれは現役の記憶として存在する過去が、深くおりることを遮断するからだ。
これらのことは、映像を編集していたり、繰り返し作品を見聞きする時によく起こる。
■ 記憶の化学変化
ファイリングすることで「記憶しておかなくてはならない」、
「いつか役たつかもしれない」から開放されることを目的としているはずが、
ファイリングされることで、基本的にはあまり忘れないし、役立つときらしき瞬間には、
その動機として存在している記憶の「何か」が思い出せない。
ただ、ぼくは作品を作るわけですが、製作しあとになって振り返ってから、
「これとこれのことだったのか」と思い出す時がある。
結局、それは、それでも「完全に忘れていたこと」が、沈殿して、分解して、
合体し浮上してくるのです。本でもなんでもそうだけれど、
現役の情報として読んだり聞いたりしているものは、それを忘れたころにはじめて、
自分の言葉になって浮上していたりすることに最近気がつく。
これもその沈殿と、混合と、浮上のように感ずる。
そこで面白いのは、思い違い、記憶違い、がおこることです。
多分それを創造とか創作っていうような気がします。
■ 情念世界と感覚世界のねじけ
で!ぼくが常にやりたいのは、この思い違い、記憶違いにあるもうひとつの第3世界、
面白いズレを誘発するための作品が作れないかと、製作しているような気がするのです。
基本的には、社会的関係性やコミュニケーションではなく、
自分自身に向かう心が主題だと、製作しだしたころからいっかんしてずっと言っている
(はず)と思うのですが、しかしながらどうも深いところでは、
あらゆる他者と通底している(社会?世界?がある)
ことは事実のようだと考えるようになり、となると、
かろうじで表現をコントロールできるのならば、
その通底するスイッチを半分は意図的に製作すれば、
面白いことになるはずと思うようになった。
具体的に言うともっとわかりやすい表現にすべきではと考えるようになりました。
記憶の混乱は、実に面白く創造的で、実は真実ではないか
...ま、ここまで言い始めるとシュルレアリスム思想云々になってしまいますが、
体験的にそう考えるようになりました。
↑ちなみに...。
- 作者: 関則雄, 井上リサ, 三脇康生, フィルムアート社編集部
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↑ちなみに2...。記憶というものは。
■ 記憶が消えない恐怖/関係性の回避方法
しかし、日記もさることながらファイリングしたりするということは、
プライバシーという影を背負う。その時はよくても、
「不快」なものに変わりかねない。(このブログだってそうです...)となると、
すべてではないが、忘れたほうがいいものも必ず出てくる。
現役の情念世界で、ながくファイリングしていると、
そういった行き詰まりにいやがおうでも、気がつく。そこで自然に記憶を取捨選択し、
良い記憶を残し、また再生する。そのうち、多少の苦悩苦痛も、
甘美なものに変化している。
■ ノスタルジアの不快/不安との対決
そういった(ファンタジー/閉じられた世界)世界は一時期のシェルターになり
癒しにもなるが、情念世界を生きているわけではないので、
癒えたらまたでてこなくてはならない。しんちゃんの父は、
臭い靴の匂いによって「今」の世界で生きることへの脱出に成功した。
(ちなみに匂いって記憶と直結しているらしく、
この前テレビでそのことをプルースト効果というというタイムリーなことを言っていた。
ぼくは蓄膿におびえる、慢性鼻炎なので、
常々ひょっとしたら記憶回路がおかしい原因の一部は鼻のせいではと思っている)
ぼくの場合にかぎっていえば、作品をつくることで、
切捨てができているのではと体験的に考えるようになりつつある。
映画 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲
- 出版社/メーカー: バンダイビジュアル
- 発売日: 2002/11/25
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- 出版社/メーカー: ジェネオン エンタテインメント
- 発売日: 2002/11/22
- メディア: DVD
↑ちなみに...。
■ どうせ死ぬからの再生/李さんの話。
色んな趣味の人が、たくさんのものをコレクションするわけだれれど、
ある飽和状態に来た時、経済的理由等々もあるとはおもうが、飽きて、
捨てて(手放して)しまうらしい。この前ダウンタウンのまっちゃんが、
昔に買ったドラマのビデオをDVD化しようと思ったけれど、大変な作業だし、
40歳をすぎて、後何回みるのか考えたら、
もう死ぬのが近いしやっても無駄だというような事を言っていた。
多分、物質的なものを集めるのというは、ある自分が作り出している永遠性の神話を
信じていて、死への抵抗なのかなと、おおげさに考える。
僕の場合、ビデオがそうだ、高校くらいから取り出して700本くらいにたっするが、
去年今年と、ファイリング同様、事情でおさえたが、それでも増殖している。
その二年位前まではPCでデーター管理していたが、
そのデーターがこわれてからいっきにやる気をなくし、
ナンバリングだけして溜め込んでいる。お金があれば、
アルバイトをやとってそれこそDVDに焼きたい。
もちろん映画はレンタルにあるけれど、その当時のCMも重要だし、
吹き替えもしかり、民放のマイナー番組はアーカイヴも再放送もない。
そう、これに関して言えば、それこそ現役の記憶としての過去で、
ファイリングしたことで、覚えていて便利な時が多い。TVCMにおける
「現役の記憶としての過去」といえば、関西では、やぐら茶屋と、
とんかつKYK...です。
李さん一家の場合、あらいざらいなくなって「思い出の喪失」という混乱が
一時起こったみたいだけれど、その後、価値創生のような心の現象がおこっている
みたいなので、人間というのは面白いし、なんだか勇気付けられる結果です。
というのは、かつての赤軍派の人だったかが、散々、色んなところで活動していて、
結局日本に帰ってきてお縄をちょうだいしたという話があったと思うけれど、
地霊というか、生まれたときの記憶に老いた肉体というのは抵抗できないのかな
とも思った記憶がある。若い時は、自分の未来におびえ、年老いると、過去に生きる、
結局今を生きれない社会なんて誰かが(もっとうまい言い方で)
言っていたけれどそんなものなのかなと思っていたので、スパッと物理的な、
ある縛りからぬけだしつつ、記憶が連結する自己をたもてるのだということは、
できたとしたら素晴らしい。
だんだん書いていて、ためる人代表?立花隆の「捨てる」への反論が
たしかあったと思うので、気になるので今度読んでみよう。
立花隆をはまぞうしたけれど、それらしい本がない。思い違いかな。
■ かばんひとつで再出発
ぼくはまた、いづれここからでるわけなので、でもどってきた地点で、
それを想定して、最初っから倉庫化するよう整理している。
(ま、色んな諸事情でそう思うどうりにはいかないと思うけれど...)が、
住んでいるとどうしても部屋というのは身体化しばじめる。実家から引越しした際、
全部もっていくわけにはいかないし、過去に挫折したものはしまって
(捨ててはいない)そういう自分の中でのBランクおよび、
物理的にどうしようもないものは、PCでデーター化して持って出た。
が!!!結局はちょっとずつ実家からなんだかんだ持ちでて、
結局引っ越し先は飽和してしまった。
ま、精神的にも物理的にも通常の生活環境ではなかったから特殊な状態だと思うが。
今度、移動する際には、もう大丈夫だし、たぶんデーターももちあるかない。
一度だってデーターをみないだろうし、みたところで思い出せないのだから。
監督から、メカスは常々軽い服装をしていると聞いた。リックひとつで移動できて、
靴は頑丈、身一つをやぐらとするような姿勢。カッコイイ。
ま、これはぼくの勝手な誇張した想像の範囲の思いいれですが、カッコイイ。
で、監督もまた、わしもかばんひとつでいつでもおせわになりましたっていう姿勢を
とっておかにゃならん、なんていっていた(笑)しかし、よく考えてみると、
メカスはNYで膨大なフィルムをアーカイブしているし、
いまだに何十年も前に撮影したものを編集しているわけだから、面白いです。
ぼくは生きていたことすら忘れてほしいなんて、時折思ったりもするのですが、
作品をつくるということは逆説的な行為だし、ただ、まあ、芸術というのは
(ぼくの場合)先人から未来人への記憶の中継をしているだけのような気もします。
■ アートからのアプローチ/ためこむ人達は似たようなことをしている。
記録、ためこむという意味でアートをみるとだいたい似たようなことをしていて、
特にダダ、シュルレアル、ポップの流れの中には、
様々な作家のガラクタ?コレクションがあります。
ウォーホールのタイムカプセルなんか有名ですが、
それこそこの前行ったデュシャンもメモを溜め込んでいるし、
瀧口修造もまたしかり。(彼のそれらのコレクション展が富山かどっかであり、
みたかった!)実家美という自分の作品を言語化できないので、
彼の言葉を引用して解説したりしているのですが、内心、それでも説明できないし、
野暮な行為だと思っていますが、しかしばずれた言葉でもない。
(現代美術は直感すら、ウンチクがかたれないといけない....。
しんどいけど、最近繰り返しますが、中にとびこんでもらうには、
間口を、わかりやすくするということは重要なので、一生懸命、
ウンチクをひねる努力はします/しょっぱいこと言う可能性大ですが)
そうそう、植草甚一もためこみ代表ですね。しかし、注目すべきは、
彼のコラージュと小さなオヴジェ。影響を脱して、イラスト機能をこえて、
天然のいい作品を造っている。普通、紙モノはああはいかない。
ヘンリーダーカーは有名だし省略、後、あ、ピーターブレイク!コラージュの神!(笑)
サージェントペパーのジャケットの人です。
彼のアトリエには、ヘンなガラクタ人形や、
それらで造った立体コラージュがおかれてあり、
作品とそれらガラクタコレクションとの差異はなくとってもいけている。
みていると影響とかではなく、天然に似てくるのかもしれない。
よしんば、影響されて似せようとしても、
その収集のチョイスはうまくいかないはず。
↑
読んだことないけれど。
↑これにもまあまあコラージュが収まっているが、
大型本の方が良い。画像がないのでとりあえずこれ。
■ 脳に帰る/インプラントとユビキタス
はあ、疲れてきた。このやっとかないと気がすまない性格なんとかならんかな。
ユビキタス社会というのが、どういった肯定的社会をもたらしてくれるのかは、
生きているうちに体験できるのかはわからないけれど、
そこにSF的な人間の進化を期待する。とあるデジタル学校の学長さんの講義で、
馬鹿でかいコンピーターが、たった十何年で、ノートになり、携帯になり、
極小化の結果、最終的にはインプラントしていくといっておられた。
(詳しく言うとインプラントは問題があるから、
指輪やイヤリングどまりで手を打つのではといってました)
するとどうなるのかなあ、最終的な未来では肉体を放棄できるようになり、
鉄の球体みたいなるのかしら(笑)そこまでいかなくてもガンダムみたいな
「ニュータイプ」的な共感現象がおこるのかしら(笑)
(ま、冨野監督はターンAという発想に着地しましたが)だんだん話がずれてきました。
というか、最初からずれてるのですが、ま、とどのつまり、
このまま「一人共同体」がもし可能になった時、脳のような社会ができて、
結局右と左、上と下、前と後ろというように差異的対象をもって
個と存在の確認作業をするようなことになるのかなとSF的妄想をしたところで、
疲れたのでギブアップです。
おしまい。
なにかと話題のユビキタス。読むのがしんどそうだなあ。
年内には、「思いでづくり」に過去の展覧会の写真等の詳細をHPにアップ予定。
04年12月19日(日) ブリコ通信
■ [ブリコ通信]04年12月19日(日)
■ [ドラマ]今日の正和さん。夫婦.最終回
よかった。いいドラマでした。泣けました。脇のキャラが最終的にちょっと雑な
扱いだったような気もするのですが(笑)
■ [雑記]電車の先頭。
今日はブリコ展の顔合わせといいますか、どういうことをするのかという
会議みたいなのがあるということで、電車に乗って、あるアトリエまで行ってきました。
朝だったこともあり、ガラガラでたまたま先頭車両に乗りました。
今までも先頭車両の窓から正面をみていた事は何度となくあったのですが、
この前のタモリクラブで、たもさんが電車の運転していたのをみていたせいか、
妙にライヴ感があり、見慣れた風景が、なぜか面白くかんじました。
あんだけ確認作業をして、電車を発車させたり、停車させたり、すごいなあ。
■ [ブログ]ブリコ004
そういえば、先生の方から、ブログの事を関係者の方におしらせしていただいたのか、
突然、なんだかアクセスが多くあったかんじでして、その、どうもわざわざ、
そのすいません、思い込みで、内容がなくて、お恥ずかしい...。
と、ついでといってはナンですが、お気に入り、もしくは、アンテナ、
にいれていただいて、中には、ほぼ毎日見ていただいている方もいるみたいでして、
なんだかたいしたこと書いてないのに、本当にありがとうございます。
チャンスオペレーションといいますか、同時間軸になにかを思う事
(特に平凡なたわいもないことの距離をこえたシンパシーと言いますか)の面白さが
ブログだと思います。その展覧会が始まるころまでは、たぶん書いているとは思うので、
また何かあれば、コメント欄にお気軽にお書きください。
といってなにか感想いただけるような内容は書かないのですが...。
■ [雑記]500円でスタジオ体験
近所に、といってもちょっと遠いですが、貸しスタジオができたらしく、個人練習一時間、
お試し価格500円と書かれていた新聞のチラシが入っていた。
ぼくはカラオケには大学の時以来、行った事ないのですが、
(カラオケってなにがたのしいのかわからない)バンドカラオケってないのかしら。
いまの打ち込みもけっこう、人間的な微妙なリズムを再現できるみたいですが、
そういう、きもちいいのがあったら、もっていって、爆音でひいてみたい気分です。
ストレスかな...。
[コメントを書く]
# おおたに 『はじめまして。ゆもか研ニュース担当、おおたにです。
佐藤先生にご紹介いただいて以来、アンテナに入れさせていただいています(笑)。
ブリコ展への道のりが書かれていることもあり、おのずと期待が高まります。
会場で作品を拝見できることを楽しみにしています。』
# kyoton2 『はじめまして。コメントありがとうございます。ありゃりゃ、そうでしたか。
ま、その、ふらふらと節操のない雑記しております。おはずかすい。
/面白い展覧会になるよう、がんばります。』
05年1月8日(土) ブリコ通信
■ [ブリコ通信]ブリコ通信004/創作メモ。
だいぶ整理ができていますが、頭の中だけではさすがに無理がでてくるので、
発表する前に失敗、実験を多少しておかないといけません。
結局、ブリコの作品というのは、電子ゲームがでても、自分達で、紙をきったり、
色をぬったりして作ったボードゲームのたのしさだったり、プラモデルがすでにあるのに、
牛乳パックや、鉄や木で模型をつくったりするたのしさに近いことをあらためて
実感しはじめています。
もっと詳しく言うと、そうやって、友達とあそんだり、一人遊びした具体的な記憶の、
より向こうの、時間軸できざまれていない、永遠の時間の感覚的記憶が作らしている。
その「思い出」というのは、そういう沈殿の化学変化が衝動をつくりあげている
ような気がします。
アートと工作がどうちがうのかとか、工芸と美術品、作家とアノニマス等々、
コンフュージョン?のようで、そもそも意味のないものに意味をつけているにすぎない
ので、意味から開放するという意味をつけていくという、
なんのことだかわからないですな、えー、つまり、
そういうことを考える必然をもたなくても直感的に概念をくずされる心地よさ、
つまり、より根源的な遊びといたずらのよろこびを知ることが、
それも長いな、えー、解説はだれかしていただけたらしてください。
メインの申請したものはまだ結果がでていないのでなんともわかりませんが、
けっこうその枝葉の想像が膨らんできていて、とても楽しい。
あとで現実的なこととてらしあわせないといけないのですが。
ロフトで、達磨のマスクをみつけた。やはり人はかぶりたい衝動があるのでしょうか。
(これは民俗学的にコレクションされないのかしら)
05年1月9日(日) ブリコ通信
■ [ブリコ通信]ブリコ通信005
今日は、あそびにきていた親戚が骨董を主に扱う展示即売会にいくというので、
素材探しについていった。が、なにもなかった。骨董市はたまにいくが、
いまだ何も買った事がない。
ほんとに意味なく高いのとジャンクが、いがいとおいていない。
あそびの部分がないというか、価値創生する楽しみが用意されていないというか、
売り手の都合になっていて、手が出せない。もちろんこれは個人的事情における見解です。
にしても李朝にはめがいってしまう。
まったくめききでもないのですが、それは違うのではないかという
印象のものもあるのだけれど、どうやって判断するのでしょう。
ともかく、素材をそろそろ調整しないといけないので、時間を見つけて、
ネットサーフィンなりも含め探さないと。
05年1月10日(月) ブリコ通信
■ [ブリコ通信]ブリコ通信005-2
図書館に返却をしにいって、ショップ探索。さっそくひとつオヴジェ素材を購入。
以外に、さがしているものがなかなかない。ネットではみつかるが、
千円みまんのもの買うのに、送料等々で1000円かかる。もうすこしねばってさがして、
なかったらネットで。
05年1月16日(日) ブリコ通信
■ [ブリコ通信][雑記]ブリコ用探検
素材探しにいく。
ちょっとおもしろいのを発見するがいい値段がするのでギリギリまでねばろうと思うが、
はたして展覧会にまにあうのか。図面をはやくひかねばと思うのだが。
05年1月18日(火) ブリコ通信
■ [ブリコ通信]■[ART][TV]基地/ブリコ通信006
次の展覧会のテーマつながりというか、懐古趣味だとか、そういったものではないが、
やっぱりロボダッチがとても気になる。
で、何が具体的に、きになるかというと、基地という感覚。
テーブルの下で椅子をたおし乗り物にみたてて一日いれた感覚、
「ないものがみれる感覚」
人間はない部分を想像でおぎなって、視覚をはじめとする感覚をおぎなうそうで、
よく日本画なんかでいう空間を味わうなんてのは、そういうことで
(で、パロディではないが、岩で空間を全部埋めた水墨画を描いたものを、
以前、家に来たキュレーターにみせたら、まったく無反応だった....切腹?)
とても脳は便利にできている。
知識や科学的に作品を構成するつもりはまったくないが、やっぱり記憶、
小学校までの「みえないものをみた」非具体的な記憶が、
つむぎあわさっているように思う。
↑これまでなんどもみて面白いしカッコイイとは思っていたものの、
この前深夜にテレビでみて、今回、そういう記憶の視点でみると、
ものすごくクリアーに美しいとかんじ、身体的に妙な表現欲の興奮が沸いてきた。
無意識や心を主題にずっと興味があるのだけれど、箱庭、
ジオラマというのは曼荼羅のようにつくりあげて壊せば、
このもやもやとするわだかまりがとけ、次のステージにいけるのかも。
しつこいけど、ロボダッチ再販もとむ!!!!
食玩とかだったらけっこうヒットするのでは!!
誰かプレゼンして!!もしくは本つくって!
こんなかんじでもいいから。もしくはこんなかんじ。
でももっと若い人にも、うけるかんじで、POPな編集にして、
たとえば当時の子供たちのセピア写真はさんだり、
カットアップいれたり贅沢な編集してしあげるとか。ほしいんだけどなあ。
だいたい、ロボダッチが単語にないのがおかしい!(笑)
05年1月22日(土) ブリコ通信
■ [ブリコ通信]ブリコ通信007
ようやく、押入れの資料を整理したり、家具など採寸しはじめたりしている。
色んなものがでてきて恥ずかしい。資料というのは、おごり高ぶらないように
反省材料になると思って、おいているつもりでも、みるとまったく成長していない
ことにへこんでしまう。それはさておき、けっこういい組み合わせができてきた。
今回、というか、この作品は、色をぬったり変形させたり切り貼りしたりということは
しない。若干額にいれたり、固定するために貼ったりはするものの、素材そのものの
組み合わせのみで世界を作る。
それでいて、それらの行為、構成が四角四面にならないように、
又は展覧会自体のコンセプトにはまりきったものにならないように、
かたすかしものはある程度用意している。いたずらを考えているようで楽しい。
昼間にある素材を買いに言ったら、かなり探し回ったが、
安くほしかったものが手に入ったのでウレシイ。
小学校(3か4年生)の時に描いていた漫画。国語辞典くらい量がある。
(85年?の写真)中学校の時に作ったリックディアスの写真。
オモチャやにかざってもらってそのままの奴です。
こんなのが多々出てきたので、それこそスキャンすればと思うけど、まあいいか。
05年1月31日(月) ブリコ通信
05年2月2日(水) ブリコ通信
■ [ブリコ通信] ブリコプチ通信。
条件にあわせ、一旦考え直し。このブログで、時間がないので思考メモしようと思うが、
今日はまだすることがあるので、のちのち。今飛ばしとかないと、製作時間がない
(しまった、もう二時か、タモリクラブがはじまっていた-ヘビメタとかって
あんまり聞いてなかったけど、聞きたくなってきた。80年代の。)
05年2月4日(金) ブリコ通信
■ [ブリコ通信]■ブリッコ通信。
いよいよ、あと一ヶ月とちょっとで展覧会なのですが、なかなか身動きがとれずに
いますが、あまりにかわいくできたのでちょっとだけ公開。
現場ではこういう細部までたのしんでほしいものです。
ほんの少しだけ、モノの意味がずれるという面白さといいますか、
ま、そんな難しく解釈せずとも、えー。
さらに、もうちょっと装飾をしてあげようかなと。
05年2月8日(火) ブリコ通信
■ [ブリコ通信]■ブリッコ通信メモ編。
というわけで、のちに体力があれば、まとめようとがんばって今のうちに
創作過程をメモしようとしているのですが、いかんせん眠る前なので、
考えがまとまらない。
(でもよこになると眠れない)ので自分しかわからないようなメモをして寝ます。
明日も早起きするので。
オヴジェ1+オヴジェ2=A
オヴジェ3+オヴジェ4=B
A+B=C
C+空間=D
D+人=時間
時間+記憶=E
E=!
光と影 子供が理解するという視点 物の意味(機能)と履歴の足かせから開放する。
モンタージュ、コンバイン、コラージュ、デペイゼ。
なんの学術的根拠をはじめ、その他もろもろなにもない。妄想感想雑文です。
05年2月9日(水) ブリコ通信
05年3月19日(土) BRICO・ブリコ通信・再録(ほぼ未編集版)
■ [ブリコ通信]切り抜き再録 ブリコ通信(ほぼ未編集版)
お読みになる方は、思い込みの激しい、言葉づかいや、妄言をさしひきながらお読みください...。
あくまで個人ブログですので...。
今見ると、ところどころ、どうしてそんなことを思ったのかすでに思い出せない部分がちらほらあります...。
05年3月20日(日) BRICO・ブリコ通信//子供部屋//各箇所のあとずけ解説。
■ [ブリコ通信]ボクのストロベリーフィールズ
永遠の誕生日という感じです。甘く癒すようで、狂気的で、でてこれなくなる危険もある。
意図的にノスタルジックにしているつもりはありません。
そもそも世代が、ばらばらなのだから幻想の共有ができない。
...はずなのですが、深いところで、通底していませんか、何かが?????
一応完成間近に、無理から説明する際、とっさに考えたのは、
この部屋は、自身の幼稚園から小学校6年までを右から左へ
グラデーション的に展示しているという構成案です。
マジカル・ミステリー・ツアー(8曲目。作品のテーマソング?)
■ [ブリコ通信]花火
前述したとおり、みなさんのご協力で、とってもキュートな画が撮れました。面白いので、
また時間をみつけて、今度は学生さんをつのったりして、プチイベント化してFIREWORKSしたいと思います。
かなり久しぶりに花火をしましたが、けっこうみんなテンションがあがるものなのですね。
■ [ブリコ通信]裏庭の友だち
ここは、そもそも、まさに「空き地」で、予定外でしたが、何もないのもおかしいのでうめました。
子供が拾ってきて、隠して勝手に飼っている動物、というイメージにみえてきました。
犬小屋にいるのは豹だそうですが、どうみてもウナギ犬です。
とても気に入っている空間です。
■ [ブリコ通信]達磨の社会
たぶんこんな形で達磨をみることはめったにないので、ぜひ実物を見に行ってほしいところです。
しかも裏から顔をいれて記念写真まで撮れるようになっています。(笑えるのでぜひどうぞ)
ほんとは裏はとじられていて、覗き穴だけがあり、
そこからのぞくと不本意に達磨の一部になるという構成だったのですが、
あまりに達磨たちの背中に哀愁があり、その塊が、すばらしいので、閉じるのをやめました。
たくさんの背中はみどころのひとつです。
達磨というのは我慢の象徴で、それが集団なのだから社会そのものです。
そしてその中で、一人の人間になった時、はじめて目玉に心眼が入るのです。
ボクが子供のころ、かわいがってくれていた、あるおばあさんに、
いつも達磨をみせられ、「悪いことをしてはいけない」「我慢しなさい達磨さんがみているで」
と「我慢」を教えられていたことを思い出しました。
結婚した時にその達磨をあげるといっていたのですが、、
おばあさんも亡くなってもらわずじまいだし、ボクは未婚です。
同様にやはり、プレオープンの時、見にきていたお母さんが、子供に、
「ほらだるまさんがみてるで、」っと言うことをきくようにしむけていました。
又、達磨を見るなり泣き出した子供もいました。
これから参加していかねばならない不可解なかたまりに不安をおぼえたのかもしれません。
<全体写真では右下から屏風の達磨もみえている。面白いシンクロ。>
■ [ブリコ通信]押入れの宇宙
空間をしきりだしたら、やはりぎゅうぎゅう詰めの押入れを作らなくてはと思いつき、
都合により没になった、最初に考えていたオヴジェのトーテムポールをきりくずして詰め込んだ。
なんというかサイケデリックのかたまりになった。
今回は博物館的みえかたをする必要はまったくないわけで、むしろ半開きの戸の方が、気になったり、
暗がりのほうが、より想像します。
で、なんで子供部屋からおしいれが思いついたかというと、閉じ込められた経験があるとかではなく、
子供のころ(幼稚園前後)、よくオモチャや本をかたずけては、忘れて、
おしいれをごそごそやっては発見し、懐かしむといことを繰り返していたのを覚えているからです。
ほんの少ししか生きていないのに、すでに、懐かしいという快感のために、そのような行動をしていたみたいです。
■ [ブリコ通信]ミュージアムグッズ
まったくコンセプト等と関係ない...?
無理から説明すると、子供って自分達でボードゲームを作ったり、
ロボットを作ったり、というかんじで、感動したものをすぐ真似します。で、オリジナルの切手や、お金を作るかんじで、
勝手にミュージアムグッズを作ってみました。
手の怪獣がいなければ、ただの絵葉書的構図なのですが、両面刷ってあり、絵葉書にならず、
ましてや怪獣がコラージュされているので、どうしようもありません。
子供にうけるかなと思って、名前を募集するかわりにプレゼントという形式にしたのですが
(その方が、ミュージアムっぽい)けっこう元子供の方々も参加してくださっていて、
けっこう面白い名前が集まっています。
ある程度たまったら、このブログで発表したいと思います。(多分)
要は、この展覧会において、あまりにアートアートしたり、民族学云々の学術的だったりして展示空間が、
息苦しくならないように、というのが、一応の目的です。こいつまた勝手に寒いことしてんなーと思われようとも...。
■ [ブリコ通信]ロックンロール
大人は気に入らないのさ!って感じで、中学生の子供部屋です。
まあこれもまさに、結果、そうなっただけで、まずトナカイテルミンがあって、
ギターのイメージがでてきて、かべにいけてるグラビアがほしくなって、あれ、これって中学生?っとなったわけです。
大人はいかようにも、解釈して楽しんでいただければいいですが、
小学生以下には抽出された、なにかしらの如何わしさと恐怖感と猛々しさ、
兄ちゃんの部屋にしのびこむ「儀礼」のかんじを味わってもらえたら面白なあと想像しています。
■ [ブリコ通信]子供は大人の言うことを聞かない(ビデオ)
とりあえず、ミュージアムグッズもそうですが、ミンパクはじまって以来ではないかというイタズラというか、
なんというか、そんなことをやってしまおうというのが、最初の動機です。
■ [ブリコ通信]こんなところで、ラジコンをしてはいけません。
ラジコンには、なんか大阪城をくっつけたら笑えるなあと画が先に浮かんで、
電車の中やら、なにやら色々撮ったのですが、玄関のみの映像におちつきました。
現場では、学生時代に製作した太陽の塔の下で太陽の塔がはしるという映像とともにながしています。
05年3月21日(月) BRICO・ブリコ通信/みんなワクワクしてきた//展覧会の感想文。
■ [ブリコ通信]凸凹主義。
6.7年前、ダダやシュルレアリスムの反復を無意図にもしていることがさすがに気になりだして、
改めてシュルレアリスムとは何かを勉強しました。(みんな忘れた...)
で、その関係からレヴィストロースにぶつかり、ちょっとかじったのですが、
(さらにそのまえに構造主義のプチブームがあったような)ちんぷんかんぷんで興味も持続しませんでした。
が、ここへきてまた出会うとは!..でも読み返さない。
ただ、その時以来、ずっと彼の著書(構造、神話、労働/みすず書房)の中に気になって、
線まで引いてこれまで繰り返し見てきた一文(p48)があって、
ロートレアモンの「解剖台の上でのミシンと洋傘の偶然の出会い」の詩について、
エルンストが「一見したところ対立的な性質をもった2ないしそれ以上の要素を、
さらにそれらと対立的な性質をもった平面の上で近づけること」と彼なりの表現で構造主義を予告する様を踏まえ、
"けっして偶然のものではなく、密かな意味作用の総体を覆い隠している"
と、書かれているのを発見して思わず膝を打ちました。(のちのち、たしかこれについても、
ひっくりかえされたような文を読んだような気がしますが、学術的興味はまったくないので不確定情報)
- 作者: クロード・レヴィ・ストロース, 大橋保夫, 三好郁朗
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 1979/01
- メディア: 単行本
構造というのは、ある種の「みたての世界」で成立していると勝手に解釈しています。
要は難しく考えず、森羅万象、時間や物質、あらゆるものには凸と凹があるのです。
例えば、コップには、大概、水を入れますが、そこへ、砂をいれる、と、コップの[飲む]という機能が消え、
[運ぶ]や[計る]という機能が生まれます。そこからどんどん離れて、サイコロをいれたらどうなる、
人をいれたらどうなる、地球をいれたらどうなる、宇宙をいれたら
...と凸と凹の関係を色々遊んでいるうちに、凸と凹は一応、はまりあっているのだけれど、
本来思い込んでいる意味がねじ切れて、なんだか面白い[何か]というのが生まれる。
それがざっくりいうと[アート]だと思います。
というわけで、以来、ホワイトキューヴで、コンセプチャルにかっこよくするでなし、
ましてや概念武装もせず、精神的に開放されないものだろうかと、言葉で説明しきろうとしたり、
発表の場所がほしく公募に出したり、WEBでなんとかしようとしたりと、
とても寒い不毛な努力を多々やったのですが、のれんに腕おしでした。
もちろんO美術館でやったときは、とてもうれしかったのですが、どちらかというと当時は、
いわゆる障害者アートへの共鳴の証明に終わり、表現としては不完全燃焼でした。
で、振り返れば、その後は、アイデアがあるのに具現化できないスランプに陥っていたと思います。
と思うとそこから数えて五年越しにやれた今回の展覧会は、おもいっきりできたので、本望です。
もちろん批評批判評価があることはうれしく、また期待してはいますが、
まずは頭の中にあった思ったことを具現化できたことに満足しており、
いつものごとくなんのリアクションがなくても、今までとは違う爽快感があります。
(自分にとっては成熟というか、大きく違う心境の変化です)
あらためて、お声をかけてくださった、はたさんや佐藤先生をはじめとするたくさんの関係者の方々に
感謝しているしだいです。
■ [ブリコ通信]子供部屋。ハーメルンの笛吹き男。
つい昨日も姪が遊びに来ていて、家の前で車と接触事故を起こして、
ひとまずは、かすり傷ですんだのですが、ぶつかった鈍い音が、窓越しに聞こえたので、
その時は生きた心地はしませんでした。
二、三歳のころには急な階段をひとりで上ってきたり、ともかく、彼女には翻弄させられます。
世の中のお父さん、お母さん、本当にご苦労さまです。
子供というのは、注意散漫で、我がままで、どうしようもない。
勝手しておきながら可愛い顔やしぐさでごまかすのです。
だからというわけでもありませんが、子供(人間)というのは、もともと悪で、
成長する過程で、善を憶えるというか、思い出していくようなきがしています。
今回、子供部屋ということで、製作したわけですが、
そういった意味では子供部屋というのは悪の巣窟で、いづれはなくならなくてはならない世界。
無秩序で、危険で、ずっとあってはいけない。もしくは、時々帰るのはいいけど、ずっといてはいけない場所です。
ハーメルンの笛吹き男(ボク)についていったら、とてもここちいい世界でずっと住み着いているうちに、
ある時、変な力をもちだし、ゆがんだ爆発をする可能性をはらんでいるなと、今回製作しながら思いました。
子供はそれ相応のタイミングで、その衝動にしたがい勇気をもって
(物理的にはともかく、精神的に)外の世界へ向かわねばならないと思います。
まあ、自覚もしているのですが、ぼくは未熟で悪い意味でほんとに子供だなあと思う時が多々あり、特に他者にたいして気配りがきかず、とてもへこむことが多いのですが、なんにせよ、この仕事をへて、今後ブリコラージュな人生を歩めるのかはともかく、
これでボクも、ようやく大人になれそうです。(ほりえもんよりひとつ年上)
# kyoton2 『追記。収蔵品の安全の都合上、どうしても、トナカイ部屋へ向かう道幅が、車椅子がはいれない幅になったことが、くやまれます。もし入れなかった方が、おられましたら、申し訳ありませんでした。ボクの力不足です...。』